年末年始、GWなどの長期休暇のあとに、心身の不調を感じたことはないだろうか。「正月ボケ」「五月病」に代表されるこれらの現象は、どれも”環境の変化”によるものと考えられている。

最近、ふと筆者の脳裏によぎったのが「コロナロス」という言葉。

それについて調べてみると、2020年夏頃にTwitter上で話題となり、2021年1月29日にはBuzzFeed Newsで「コロナにうんざりしているはずなのに、なぜ『コロナロス』を抱いてしまうのか? 精神科医に聞きました /岩永直子氏」という記事も投稿されていた。

同記事では、斎藤環氏(筑波大学大学院社会精神保健学分野教授)の意見が紹介されていたが、本稿では筆者なりの切り口でコロナロスについて考えてみたい。

2020年、強制的に非日常になったこの世界。もし「かつての日常に戻る」としたら、今の生活がまた”変化”することになる。(厳密には完全に元の日常ではないだろうが)

決して「私たちの命を脅かす感染症がはびこる世界が良い」と言っているのではない。コロナの恐怖がなくなった時、今の制限された生活に慣れた人々は、反対に何かしらの喪失感(もしくはそれに似た感情)を抱くのではないかということだ。

では、コロナロスによりどのような現象が起こるのか。何かそれに対処する方法はないだろうか。

目次

コロナロスの定義

本題に入る前に、本稿におけるコロナロスの定義をしておきたい。コロナロスとは、コロナ禍により変化した生活から、かつての生活に戻ることにより”何かしらの喪失感”や”心身の変化”が起こることとする。

卑近な例で言えば、コロナ禍でのテレワークにようやく慣れてきたところ、収束の兆しが見え、以前のように出社を求めらるケース。

はじめは「家でまで仕事をしたくない」「オンラインではコミュニケーションが取りづらい」など、慣れないテレワークに戸惑った人も多いはずだ。

しかし、それが日常となった今、今度は出社を求められることに対し違和感を覚えるのではないだろうか。(ここには従来型の働き方の問題点もあるが、論点が複雑になるため今回は省略する)

それにより、「会社に行きたくない」「出社しても以前よりやる気がでない」といった人が現れ、「コロナうつ」ならぬ「コロナロス」が現象化してもおかしくないだろう。

繰り返しになるが、筆者は決して今のコロナ禍が良いと言っているわけではない。伝えたいのは、好転悪転を問わず単に「現象としての環境変化」に対し、人は負担を感じるのではないかということだ。

そもそも◯◯ロスとは何か

「◯◯ロス(英:loss)」は、何かを失った時の喪失感やそれを感じている状況を指す。中でも有名なのが「ペットロス」だろう。ペットと死別した後、強い喪失感を感じ、心身に支障をきたす状態だ。これを単に”現象だけ”を追いかけると以下のようになる。

1.ペットを飼う(非日常)

2.一緒に生活をし、それが当たり前になる(日常)

3.死別(日常の崩壊=非日常)

生まれた時からペットが家にいた場合を除き、「1.ペットを飼う」という行為は人にとって「非日常への変化」である。

その後、ペットと一緒に生活することが「日常」、つまり当たり前になっていく(2)。「ペットの死」により日常が失われることは日常の崩壊つまり「非日常」になるが、しばらくするとペットがいない状況がまた当たり前となり、日常化する。

※一般的に「非日常」という言葉は、ややポジティブに捉えられているきらいがあるが、ここでは単に「日常ではない状態」を非日常とする。

ここからわかるのは、「(意識的、無意識的を問わず)人は日常と非日常の状態を繰り返している」「(ネガティブ、ポジティブを問わず)日常と非日常は人にとっての”変化”である」ということだ。

これをコロナの文脈に置き換えてみると、以下のようになる。

1.コロナ前の世界(日常)

2.コロナにより制限された世界(非日常)

3.ニューノーマル(非日常の日常化)

4.コロナのなくなった世界(日常の崩壊=非日常)

1から2になった時、我々は大きな負担を強いられた。それが日常化してきているのが、今(3)。そして、ここから4に移行する時、やはりその変化により負担が生じるのではないかという考えだ。

人類は変化に強いが、人は変化に弱い

生物学的には、本来「人類(ヒト)は変化に強い」と言われる。これは、寒い場所や暑い場所でも生きられること、種を残すため脳などさまざまな身体的な変化を遂げてきたきたことからも頷ける。

しかし、たとえ人が変化に強いとしても、変化を「好むかどうか」は別問題。心理学では現実の状況に固執することを「現状維持バイアス」と呼ぶそうだが、人は本来「(良い悪い問わず)変化を避けたい」という側面を持っている。いわゆる「コンフォートゾーン」の考え方に近いかもしれない。

もし明日、急に氷河期が到来しても、人類はなんとか生きていけるかもしれない。しかし、その状況は外的要因によるもので、自ら好んで選んだわけではなく、ただ「順応せざるをえない」だけである。

その変化が起こる時、人は何かしら精神的な負担を感じるに違いない。その氷河期が終わった時(好転した時)にも、きっと人は何かしらの精神的負担を感じるのではないだろうか。

コロナロスへの対処法

では、日常の変化によりもたらされる「コロナロス」に対処できる方法はないのか。浮かんだことをいくつか紹介したい。

1.コロナロスの可能性を否定しない

まずは、コロナロスが起こりうることを、前もって意識しておくこと。「そういうことが起きるかもしれない」と事前に想定しておくだけでも、気持ちは違うものだ。

しかし、それに対し過度に恐れるのは本末転倒。可能性としてゼロではない程度に意識するのが、ちょうど良いかもしれない。

2.ニューノーマルを定着、進化させる

本当に日本全体が「ニューノーマル」へと大きく舵を切れるなら、そもそもコロナロスは起こらないかもしれない。今の日常をスタンダードとして、その延長線上に小さな変化を積み重ねていけるからだ。

つまり、「コロナのある世界」と「コロナのない世界」の2つで極端に捉えるのではなく、「気付いたら変わっていた」ことを目指すのも一つの対処法。人々が今の生活から徐々に変化を受け入れるような仕組みを作り、”大きな変化”が伴わなければ、喪失感は感じにくいはずだ。

3.大きな決断をしない

2020年は住宅を購入する人が増えたという。これは、テレワークの浸透による住まいの選択肢の拡大や、部屋数など物理的な問題からだそうだ。今でも「テレワークができるなら人の少ない田舎で」と考える人もいるだろう。

また、中にはテレワークを導入しない会社に業を煮やし、退職、転職の道を選ぶ人もいるはずだ。

たしかに、現状に対する不満を解消する手段を模索することは当然だ。しかし、未曾有の状況において大きな決断をすることは、変化の後の後悔にも繋がりやすい。「何か動きたい」という気持ちは理解できるが、今は家の購入や転職など、大きな決断を避けるのが無難ではないか。

4.非日常の連続は日常になる仕組みを理解する

先述したように、非日常が続くとそれはいずれ日常化する。1年中「正月ボケ」している人がいないように、人は時間の経過とともに徐々にその環境に適応する力を持っている。

コロナロスにより精神的負担を感じるのは、一時的なもの。この仕組みを理解しておくことで、過度に恐れる必要もなくなるのではないか。

最後に

この記事を書いていて思ったのは、「誤解なくコロナロスを語るのはとても難しい」ということだ。今回だけで論じ切るのではなく、引き続き考えていこうと思う。

もしかしたら、この記事を読んだ方の中は「元の生活が良いに決まっている。ポジティブな変化ならそんなことは起きない」と考えるかもしれない。筆者もそう願っているが、やはり人はいくらポジティブな変化であっても、何かしら負担を感じるのではないだろうか。

一つの可能性として、意識だけでもコロナロスに備えてみてほしい。

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